056 兵庫県 伊和神社の鶴石

【Introduction of Iwakura 56】


□分類:磐座(狭義の磐座)

□信仰状況:神社に祭祀されている

□岩石の形状:石単体

□備考:


□住所: 兵庫県宍粟市一宮町

□緯度経度:35°05'14.59"N 134°35'11.40"E

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播磨国の一之宮は、宍粟市の伊和(いわ)神社です。神社の直ぐ側を姫路と鳥取を結ぶ国道29号線が通っているように、この地は古代から交通の要所でした。また、古墳も多く存在し、縄文早期の土器が出土していることから古くから人が住んでいた場所でした。

ご由緒によると、「大巳貴神(おおなむちのかみ)は、播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於いて人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当社の創祀であります。」となっており、延喜式によると、神社名は伊和坐大名持御魂神社で御祭神は、大巳貴神とされています。

一般的に神社は南向きか東向き、つまり、太陽が参拝者の背から拝殿に差し込むように建てられていますが、伊和神社は、北向きに建てられています。

この理由について、ご由緒には、「成務天皇甲申年二月十一日丁卯、一説に欽明天皇二十五年甲申歳、伊和恒郷の夢に「我を祀れ」との御神託があり、一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽石上に北向きに眠っていたのでその所に社殿を造営したという。その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためである。」と書かれています。

神社の本殿の裏には、その鶴石と呼ばれている1メートル程の石が祀られています。

この小さな石を祀るために北向きに建てられているのならば、強烈な磐座信仰と言えるのですが、鶴石を祀りながら社殿を南面に建てることもできたわけで、なぜ北向きかの理由としては、説得力がありません。また、出雲大社の大国主が、参拝者と向かい合わないように西を向いていることと同類と見なして、伊和大神を封印するためとする見方や、大巳貴神なので、祖国である出雲を向いているとする見方があります。

出雲との深いつながりは、御祭神の大巳貴神は大国主命のことであり、江戸時代の社殿が切妻造で鰹木が三本という出雲特有の社殿であったことから推測できますが(現在の社殿は入母屋造)、北向きの理由としては説得力に欠けています。

一方、伊和神社の北側の誰も訪れそうもない森の中に立派な岩石群があります。三山乙女の泉という名前の小さな池と像があります。像は、着物を着た2人の少女を模った真新しいモニュメントで、伊和神社宮司の安黒義郎氏と刻まれています。

3つの岩石群に囲まれる位置に三山乙女の泉の像が建てられています。この岩石群の存在が、神社を北向きに建てている理由を秘めているのかもしれません。

この伊和神社では、21年毎に一つ山祭、61年毎に三つ山祭という式年祭が執り行われます。一つ山とは宮山、三つ山とは白倉山・高畑山・花咲山のことで、祭りではこれらの山の磐座を遥拝します。宮山の磐座には登りましたが、頂上は、岡城跡となっており、山城を築城するときに破壊されているようでした。

これと非常に良く似た祭りが、姫路総社の射楯兵主神社の一つ山祭および三つ山祭です。射楯兵主神社では、置山と呼ぶ巨大な山を作り、射盾兵主神社の神様がその山の上で全国の神様をもてなします。この射盾兵主神社では、20年毎に三つ山大祭、60年毎に一つ山大祭が行われ、伊和神社とは期間が逆となっていますが、射盾兵主神社の祭りのルーツは、播磨国一宮である伊和神社の祭りにあるのではないかと考えています。

 

 

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