176 奈良県 三輪山 志貴御県坐神社の四つ石

【Introduction of Iwakura176】Visit・Photo:2013.4.29/Write:2025.6.8


 

□分類:岩石信仰(広義のイワクラ)

□信仰状況:神社に祭祀されている。

□岩石の形状:石群(4個の石列)

 

□備考:


 

□住所:奈良県桜井市金屋

□緯度経度:34°31'31.46"N 135°51'10.39"E

 

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大神神社から南に400メートルの位置に、志貴御県坐(しきみあがたにます)神社が鎮座しています。

志貴御県坐神社は、延喜式(924年)に記載された式内社で、創建は不明ですが少なくとも730年には存在していた古社です。御祭神は大己貴神です。

「志貴」とは「磯城」のことで、倭の六御県(むつのみあがた)の内の一つで、三輪山の西の地域を指します。

また、第10代崇神天皇の都は、磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)という名前で、この志貴御県坐神社の場所と云われています。第29代欽明天皇の都も磯城島金剌宮と言います。

いずれにしても、この志貴御県坐神社の場所は、弥生時代から人々が住んでいた重要な地域でした。

この磯城を支配していた磯城県主(しきのあがたぬし)について、『日本書記』には、神武天皇が倭に攻め入る時に、磯城を支配していた兄磯城(えしき)に八咫烏(やたのからす)を使わすが、弓矢で追い返された。しかし、弟磯城(おとしき)は八咫烏の使いに応じて帰順したため、弟磯城は県主に任命された。と記されています。

この磯城県主は、第2代綏靖天皇から第7代孝霊天皇まで、天皇の后を輩出していることから、かなりの権力を持っていたと考えられます。

磯城県主の出自については、『先代旧事本紀』に饒速日命の後裔と記されており、同じく饒速日命を始祖とする物部氏との関係も示唆されています。また、それは同時に大神神社の御祭神である大物主神につながっていきます。

さて、志貴御県坐神社の拝殿の東側に4個の石が並べられています。前に鳥居が置かれていることから、この石が祭祀の対象になっていることがわかります。

『大神神社境内地発掘調査報告書』(寺沢薫、1984年)や『大神神社』(中山和敬、1999年)では「磐座」と判断されています。しかし、この石の素性については、何も記録がありませんので、岩石があれば、何でも「磐座」と判断してしまうのは問題があります。

愛媛県の浮嶋神社では、3個の岩を並べてそれぞれに御祭神の依り代(磐座)としている例があります。志貴御県坐神社の4個の石が磐座であるならば、4柱の神の依り代という事になりますが、神社の御祭神である大己貴神から4柱の神にはつながりません。

京都府亀岡市の宮川神社には、これと同じような石が社殿に平行に5個並んでいました。この石列がいつから存在するのかわかりませんが、結界石の可能性があるように思いました。志貴御県坐神社の4つ石も結界石の可能性が高いと考えますが、本来の目的については不明です。

現在は、祭祀されているようなので、岩石信仰に分類しました。

 

 

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