イワクラ基礎知識


磐座  (いわくら)

「いわくら」という言葉は、『古事記』、『日本書記』、『大祓詞』の中に現れます。

『日本書記』には、次の一文に「いわくら」という言葉が出てきます。

「于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。」

「天磐座」と書いて、「阿麻能以簸矩羅」つまり「あまのいわくら」と読み方が記されています。

『古事記』には、次の一文に「いわくら」という言葉が出てきます。

「故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那此二字以音。雲而、伊都能知和岐知和岐弖、自伊以下十字以音。於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、自宇以下十一字亦以音。天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。自久以下六字以音」

「天之石位」と書いて「あめのいわくら」と読ませています。

これらの文献の中で「磐座」は、神が天上から飛び立つ場所として書かれていますが、神が降り立つ場所は「高千穂峯」とのみ書かれ、「磐座」とは書かれていません。

しかし、今では、「磐座」は、神が地上に降り立つ場所として認識されています。

これは、天上の起点が「磐座」ならば、地上の終点もまた「磐座」であると考えたのでしょう。さらに、日本の神は、天から地上に降臨して、祭りが終わると天に帰っていくと考えられていますので、神が天上に飛び立つときは、地上の磐座が起点となります。つまり、神は、天上の磐座と地上の磐座の間を行ったりきたりすると考えたのです。

このような神が寄りつくもの、憑依するものを「依り代」といいます。

つまり、岩石を主体にした神の依り代が「磐座」です。


神籬  (ひもろき)

『日本書紀』に以下のような記述があります。

「崇神天皇六年 先是、天照大神、倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬比伝比莽呂岐」

「神籬」と書いて、「比莽呂岐」つまり「ひもろき」と読み方が記されています。

『神籬磐境の神勅』には次のように書かれています。

「高皇産霊尊、因りて勅して曰はく、吾は天津神籬及び天津磐境を起し樹てて、当に吾孫の為に齋ひ奉らむ。汝、天児屋命・太玉命は、天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾孫の為に齋ひ奉れ。」

高皇産霊命が、天津神籬と天津磐境を立てて、天児屋命と太玉命は皇孫の為に祭祀を行えと命令したという内容で、中臣氏と忌部氏の役割を示したものとなっています。

この神勅では、「神籬」は「立てる」物で、「持つ」ことができる物ということが分かります。

一般的に現在の神社神道において、「神籬」は、神社や神棚以外の場所で祭を行う場合に、臨時に神を迎えるための依り代となるもので、八脚案という木の台の上に枠を組み、その中央に榊の枝を立て、紙垂や木綿をつけたものをいいます。

つまり、「神籬」は、樹木を主体にして作成した神の依り代のことです。

「立てる」こともできるし「持つ」こともできます。


磐境  (いわさか)

『神籬磐境の神勅』に次のように書かれています。

「高皇産霊尊、因りて勅して曰はく、吾は天津神籬及び天津磐境を起し樹(た)てて、当に吾孫の為に齋ひ奉らむ。汝、天児屋命・太玉命は、天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾孫の為に齋ひ奉れ。」

高皇産霊命が、天津神籬と天津磐境を立てて、天児屋命と太玉命は皇孫の為に祭祀を行えと命令したという内容で、中臣氏と忌部氏の役割を示したものとなっています。

この神勅では、「神籬」と「磐境」は別の物であり「立てる」ものであることが分かります。

「磐境」については、いろいろな議論があります。

例えば、遠山正雄は、『いはくらについて』において、大三輪神社三社鎮座次第に、「當社古来無寶倉、唯有三箇鳥居而已、奥津磐座大物主命、中津磐座大己貴命、辺津磐座少彦名命分云々、磐余甕栗宮御宇天皇、勅大伴室屋大連、泰幣帛於大三輪神社、祈禱無皇子之儀、時神明憑官能賣曰、天皇勿慮之、何非絶天津日嗣哉、上古吾興少彦名命、戮力一心、所以経栄天下、其所以而今少彦名命、来臨吾辺津磐座興吾及和魂共能可敬祭、守皇孫済人民矣、於是起立磐境、崇祭少彦名命、于時 天皇元年冬十月乙卯日也、仍鎮座次第如件、」と書いてあり、同じものに対して、前半は「磐座」、後半は「磐境」と表現されていることから「磐座」と「磐境」は同義であるとしました。

これに対し、大場磐雄は、『磐座・磐境等の考古学的考察』において、同じ、大三輪神三社鎮座次第について、「ここに、少彦名命が辺津磐座に来臨し、私とその和魂をまつれば皇孫を守り人民を導くだろうと述べたので、磐境を立てて少彦名命を拝めた。」と記載されているので、既に神が降臨したものが「磐座」で、新しく造ったものが「磐境」であるとしました。

造ったものというのは、『神籬磐境の神勅』でいう「立てる」に合致しています。

このように「磐座」と「磐境」には、諸説ありますが、一般的に、「磐座」は、神が降臨する岩石のことをいい、「磐境」は、神域との境を示すための岩石及び岩石で囲まれた祭祀場のことを意味しているとして区別されています。


石神  (いしがみ)

「石神」も古文献に現れます。

例えば、『出雲国風土記』に以下のような記述があります。

「嵬の戴の西に石神あり。高さ1丈、周り1丈なり。往の側に小き石神百余許り在り。」

『播磨国風土記』にも以下のような記述があります。

「家嶋。人民、家を作りて居めり。故れ、家嶋と号く。竹・黒葛等生ふ。神嶋・伊刀嶋の東なり。神嶋と称ふ所以は、此の嶋の西の辺に石神在す。」

この「石神」は、岩石を神そのものと捉えるもので、神が依りつく「磐座」とは別のものです。

「磐座」は、神そのものではなく神が使う道具であり、祭事の装置を示します。

しかし、祭祀の形式が残っている場合はともかく、どのように祭祀されているのか不明確な場合は、「石神」なのか「磐座」なのかの判断ができませんので、混同されて使用されている例も多く見られます。


神奈備  (かむなび)

『出雲國造神賀詞』によると、

「大穴持命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛嚴玉命と御名を称へて大御和(おほみわ)の神奈備に坐ませ、阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐ませ、事代主命の御魂を宇奈提に坐ませ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐ませて、皇御孫命の近き守神みと貢り置きて」と、各地の「神奈備」が登場します。

また『出雲国風土記』には、意宇郡の神名樋野、秋鹿郡の神名火山、楯縫郡の神名樋山、出雲郡の神名火山と4つの「かむなび山」が記載されています。

このように、神奈備山は、出雲系の神々が住まう山として、取り扱われています。

「かむなび」の語源については、神の森説、神の山説、神隠山説、神蛇山説、神並山説など、諸説混沌としていますが、その意味は、神が宿る依り代を擁(よう)した領域、神の住まう場所、常世と現世の結界、禁足地など、つまり神域を示しています

磐座である岩石、神籬である樹木、滝や泉などは山の中にあるので、このような神域を「神奈備山」と総称しました。

また、この神奈備山は、概して形の綺麗な三角形であることが多いのが特徴です。

大場磐雄は、神奈備型というのは三輪山のように平野の小山で集落とも接近し、親愛の情をこめてその恩恵に対して祭るもので、浅間型というのは富士山や赤城山のように、高山や火山の類で遠方からこれを遥拝し、その神霊を畏怖崇敬するもの、と神奈備を規定しています。


磐座とイワクラの違い

2004年に創設されたイワクラ(磐座)学会における「いわくら」の定義は、「イワクラとは、縄文時代から古墳時代にかけて形成された巨石遺構をさす。その時代時代の人間が何らかの意図を持って、その目的や役割に合致するよう磐を人工的に組上げ、あるいは自然の磐そのものを活用したものと定義している。その中でも、特に神社のご神体となっているものを「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」と呼んでいる。わざわざのカタカナ表記は共通名称としてイワクラ学会が提示していることである。」となっています。

これまで述べてきたように、「磐座」は『古事記』『日本書記』に登場することから、岩石信仰、岩石祭祀、神道の中で捉えられ、分類や研究が行なわれてきました。

しかし、神社が祀っていない岩石や、考古学が祭祀跡と認めない岩石の中にも、人の手が加わったものや人々が特別視したものが数多くあります。

イワクラ学会は、このような岩石を研究対象に積極的に含めるために、新しくカタカナの「イワクラ」として定義しました。

エジプト、イギリス、南米などに存在した巨石文明が古代の日本にも存在したのではないか、という考えがイワクラ学会の根底にあります。

この壮大な考えに対して「磐座」という言葉では、あまりにも窮屈なので、神の依り代としての岩石や信仰対象としての岩石を「狭義のいわくら」として、漢字で「磐座」と表現し、人工的に組上げたり配置されたりした岩石を「広義のいわくら」として、カタカナで「イワクラ」と表現することにしました。

イワクラ学会が提唱する「磐座」と「イワクラ」の関係をもう少し説明するために、四象限マトリクスで考えてみます。

縦軸に人の手が加わっているかいないか、横軸に祭祀されているかいないかをとって四象限に分けると、祭祀されていない自然の岩石(第三象限)は、ただの岩石です。学問としては地質学の研究対象です。祭祀されている自然の岩石(第四象限)は、「狭義のいわくら」つまり「磐座」であり、磐座信仰が行われ、代表的なものは神道の宗教施設として組み込まれている岩石です。学問としては民俗学の研究対象です。祭祀されていない人の手が加わった岩石(第二象限)は、「岩石遺構」であり、学問としては科学的アプローチをすべき対象です。信仰されている「磐座」の中にも人の手が加わっている岩石もあります(第一象限)。祭祀されているので「磐座」となりますが、人工の部分については科学的アプローチも必要です。「イワクラ」の定義としては、狭義の「磐座」と「岩石遺構」を含めて、第一象限、第二象限、第四象限を広義の「イワクラ」といいます。

このように岩石に対する科学的研究と民俗学的研究が、著者(平津豊)が提唱するイワクラ学です。

 


磐座と神社の関係

古代の日本では、山そのものが神、海そのものが神、あるいは岬、あるいは森、あるいは石そのものが神でした。神の世界とは、この世に存在するものの総称であり、すべてのものの中に霊魂が宿っていると考えました。森羅万象が神の体現であり、生命は神の分霊と考えられ、人間もまた神のある景色の一部でした。これは神道の八百万(やおよろず)の神々という考えにつながっていきます。

■山上磐座の前で祭祀を行なう時代 山宮

自然崇拝によって、山そのものが崇拝対象となります。

そして、山の上や中腹にある岩石つまり磐座の前で祭祀が行なわれるようになります。

このとき、重要な位置にある岩石や特徴的な形をした岩石が選ばれたことでしょう。

太陽祭祀も行なわれていたと考えられますので、冬至の夕日が差し込む岩屋や、夏至の日の出が反射する岩石なども磐座に選ばれたと思います。

磐座の上部や前面に小さな社を建てる場合もありました。これを山宮といいます。

■山上の磐座より離れて麓に社を建てる時代 里宮

時代が下ると、生活の場が山から森に移り、山の麓から山上の磐座を遥拝するようになります。

この場所が鎮守の杜(もり)です。

また、稲作の広まりとともに、収穫を祈る祭り(春祭)と収穫に感謝する祭り(秋祭)が行なわれるようになると、春に山上の磐座から神が里に降りてきて田の神となり、秋に山に帰って山の神になると考えるようになります。

そして、里に神を迎える社が建てられます。これを里宮といいます。

また、この頃に、神に名称を付けるという人格神祭祀も始まったのではないかと思います。

■人が多く住む場所に神社を建てる時代 田宮

さらに時代が下ると、人々は山里から平地に生活の場を移し、それにつれて祭祀の場も山の麓から離れます。

人々が生活している平地に神社が建てられ、生活の場に神が常に存在することになります。これを田宮といいます。

■山の中の磐座が忘れ去られる時代

神話の形成と人格神の確立により自然崇拝や磐座信仰は薄れていき、神の依代として、人の製作物である鏡や剣が本殿に置かれ、御神体となります。

神社の社殿は、鎌倉時代頃から、立派になっていきますが、祭祀の本質は変貌していったのです。


このページのイワクラ基礎知識は、平津豊の『イワクラ学 初級編』やイワクラセミナーより抜粋して記載しています。内容は平津豊の持論です。

 

著者: 平津豊

ともはつよし社 3333円(税別)

ISBN-13:978-4908878084   2016年11月

161ページ オールカラー四六版(127×188mm)

 

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